どんな布でも揃う繊維街~日暮里の歴史とは?

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日暮里には繊維街があります。日暮里の繊維街では、お裁縫にまつわる生地や道具はもちろん、毛皮やウェディングアイテムもそろっているそうです。
日暮里の繊維街はどんな風にして生まれたのでしょうか。
日暮里の繊維街にふれながら、日暮里の歴史をお伝えします。

繊維街が生まれたのは大正時代
日暮里の繊維街は、浅草からやって来たそうです。
浅草は大正時代から古布業者などで栄えていたそうです。
しかし、浅草は市街化していったそうです。
そのため、古布業者は当時まだ繁栄していなかった日暮里を、繊維の街にしようと集団で移動してきたのだそうです。

江戸時代~日暮里はどんな街だったの?
日暮里から西日暮里にかけては高台だったので、夕焼け、月、花を高台から観賞しようと当時の文化人達が日暮里へ集まって来ました。
今でいう観光ですね。
道灌山(どうかんやま)にも多くの文化人が集まって来たそうです。
歌川広重の浮世絵では、道灌山でゴザを敷き、お花見のように虫の音をお酒と共に楽しむ人々の様子が描かれています。
諏訪神社では境内から土器を落とす、かわら投げが始まりました。
江戸に流行したようです。
当時の厄除けや無病息災などの祈祷のために行われていたそうです。
かわらに厄や悪霊がとりついている事によって、それを割る事で縁起がいいとされたそうです。

室町時代に出来た高台~道灌山
多くの人々が花鳥風月を観賞したとされる道灌山。
出来たのは室町時代で、太田道灌が砦(とりで)を築いたのが始まりのようです。

明治時代~ゴッホも絶賛する浮世絵に描かれる日暮里
有名な画家であるゴッホも浮世絵そして日本が大好きだったようです。
特に、日本語の「娘」という熟語がお気に入りだったようです。
ゴッホは質素倹約でも知られていますが、明治時代の日本人の質素倹約な所がとても気に入ったのだとか。
そんな当時の庶民的な日暮里や上野の景色を描いた浮世絵の粋な所を好んだゴッホは、浮世絵の模写もするほど熱狂的に日本に好意を抱いていたそうです。

文豪の街~日暮里
日暮里は文豪の街としても知られているようです。

・森鴎外
→小説だけでなく、戯曲、評論、翻訳、陸軍軍医など多彩な才能を持っていたそうです。
森鴎外記念館は千駄木にあります。
明治から大正時代に森鴎外が住んだとされる「観潮桜」が建て替えられて出来たそうです。

・夏目漱石
→夏目漱石の旧居跡があります。
留学から帰国後の明治36年から3年ほど住んだとされているようです。
猫の彫刻がある事から、猫の家とも言われているようです。

・朝倉文夫
→朝倉文夫の住居とアトリエを改装したとされる「朝倉彫塑館」があります。

風情のある街~日暮里
日暮里は昔から庶民の街として栄え、大正時代には繊維街となる事で、商業的にも発展を遂げてきました。
また、明治から大正時代にかけては、日本を代表する文豪や芸術家が住んでいた事も分かりました。
これからも日暮里の古き良き街を残しながら、新しい時代の要素も取り入れ発展していく街になっていくのではないでしょうか。

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